我孫子宿 水戸道・成田道追分
我孫子宿 水戸道・成田道追分とは
江戸時代より前、現在、成田街道と呼ばれている道を「水戸道」と呼んでいました。当時の「水戸道」は、東我孫子、湖北、布佐、利根川を渡って布川へと進み、水戸へと向かう道でした。
江戸時代になると幕府は、交通が各地方への幕府支配力を高める重要なものと考え、江戸を中心とした陸上・水上交通網の整備に力を入れました。江戸と水戸とを結ぶ水戸道は、水戸徳川家や常陸周辺の大名が江戸との往来に利用し、東海道などの「五街道」に次いで重要な「脇往還」として発達しました。
その後、天和2(1682)年ごろになると、陸路・水路の整備が進み、大きく迂回した水戸への道は変更となり、この追分から北上する新たな「水戸道」が生まれました。そして、かつて「水戸道」と呼ばれていた道は、「成田道」と呼ばれるようになり、結果として成田道の起点となりました。新しくできた「水戸道」は北へと向かい、柴崎神社付近をとおり、青山の渡しを使って対岸へと渡り、取手宿へと進みます。
追分は我孫子宿の出入口として、地元の人々によって保存され、令和3(2021)年には地元の声が集まり、再整備されました。この整備によって、現存するなかで最古の元禄4(1691)年の道標を再調査したところ、「水戸海道」「布川海道」と書いてあり、道の変更から約九年後の時点では「成田道」は、「布川海道」と呼ばれていたことがわかりました。また、道標には我孫子宿の人々と思われる寄進者の名前が並んでおり、古くからこの地が人々にとって大切な場所であったことがわかります。
追分にある道標類
現在の道標の配置とその年代
1.庚申道標 元禄4(1691)年
2.庚申道標 安永5(1776)年
3.不動道標 文化13(1816)年
4.道標 江戸時代辛巳の年(元禄14(1701)年or宝暦11(1761)年or文政4(1821)年)
5.不動道標 文久3(1863)年
6.明治22(1889)年道路元標
追分整備の記録
地元関係者向けの現地説明会を開催しました
令和4年9月27日、追分の整備と文化財説明板の設置を記念して地元関係者向けの現地説明会を開催しました。
現地説明会には、地元関係者のほか、市長・教育長も出席し、教育委員会文化・スポーツ課の学芸員や地元関係者による解説が行われました。
現地説明会であいさつする星野市長
教育委員会 生涯学習部 文化・スポーツ課
〒270-1166 千葉県我孫子市我孫子1684番地 ※お問い合わせは平日の午前8時30分から午後5時まで
電話:04-7185-1604(スポーツ振興係)、04-7185-1601(文化振興係)、04-7185-1583(歴史文化財係)
ファクス:04-7185-1760