我孫子と平将門
平将門と承平天慶の乱
平将門(將門)は、桓武天皇のひ孫の高望王(平高望)の三男である平良将(持)の子で、平安時代中期の武将・豪族です。ちなみにこの高望王の長男である平国香から続く伊勢平氏の一族に、平安時代末期に活躍した平清盛がいます。父である平良将から所領を受け継いだ将門は、下総国猿島郡と豊田郡(現在の茨城県坂東市や常総市周辺)を本拠地としていたと考えられています。この時代の関東は、中央から派遣された国司が現地の豪族と姻戚関係を結ぶことで、任期後も京へ帰らず土着化し、開墾地を広げ、勢力を拡大する中で同族同士の争いが多発していました。
将門も父良将の死後、伯父である平国香・良兼・良正らと対立し、戦いを繰り広げますが、この時点ではまだ同族内の私闘であり、国家の大きく関与するものではありませんでした。
しかし、この同族内の争いで優勢となった将門は、天慶2(939)年11月に常陸国府を占領し、印鎰(国印と国衙正倉の鍵)を奪うという事件を起こしました。この事件の背景には、様々な理由で国司らともめ事を起こした人物が、地域の有力者となった将門を頼ってくるようになったことで、将門がその調停のために諍いに介入するようになっていったということがありましたが、それでもこの時点で将門は明確に朝廷に反逆したとみなされてしまったのです。
常陸国府を手中に収めた将門は、その後、武蔵国・下野国・上野国の国府も占領し、「新皇」と自称して独立国家の樹立を宣言しました。京の朝廷はこの事態を看過せず、天慶3(940)年正月に藤原忠文を征夷大将軍に任命し、追討軍を差し向けました。しかし、伯父の国香の子である平貞盛と下野国押領使(兵を率いて治安維持を担う役職)であった藤原秀郷らが追討軍の到着に先んじて将門の本拠地を急襲し、将門は打ち取られました。
この平将門の乱が関東で起こるのと同時期に瀬戸内海では、藤原純友が蜂起する事件が起こりました。この二つの事件をまとめて、承平天慶の乱と言います。
この承平天慶の乱はどちらも、武力によって自らの権力・経済基盤を確保するいわゆる武士が発生し始めた時代に起き、反乱を起こしたのもそれを鎮圧したのも同じ武士であったという結果をもたらしました。このことから朝廷は次第に武士を重用するようになり、それが源氏や平氏の台頭を招き、やがて平安時代を終幕へと導くきっかけとなったと言えます。
日秀地区に残る将門伝承
現在の我孫子市域はかつて下総国相馬郡に属していましたが、将門の乱の経過を記したとされる『将門記』には、「相馬郡大井津を以て号して京の大津と為さん」という一文があり、この乱の影響が相馬郡にまで及んでいたことを示唆しています。
我孫子市の日秀地区(かつての日秀村)には、この平将門に関する伝承が残されています。
「将門を裏切った愛妾の桔梗の前の名前に因んで、桔梗の花を植えない」
「胡瓜を輪切りにしない(断面が将門の用いたとされる九曜紋に似ているため)」
「成田山は将門調伏のための寺院なので参拝しない」
これらの将門伝承は、現在でも日秀地区の人々に信仰され、またこの信仰のゆかりの地として、將門神社・観音寺・將門の井戸などがあります。
將門神社(入口脇に説明板が建っています)
観音寺(観音堂の手前に説明板が建っています)
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