利根川・古利根沼
利根川
板東太郎とも呼ばれる利根川。その広々とした河原は、動植物の豊かな棲息地で珍しいタチツボスミレや美しいカワセミなども生息しており、ノスリやチョウゲンボウなど鷲や鷹の仲間も見られます。
利根川と布佐の網代場
かつての利根川と鬼怒川、小貝川等との合流点は、海からのぼってくる魚がとどまる場所でもあって、鮭や鰻の絶好の漁場でした。古来、布佐の網代場(あじろば)は絶好の漁場で、古文書によると竹袋村、布川村、布佐村、中峠村、小文間村など沿岸の有力な村々が、たびたび漁場争いをした記録が見られます。
利根川「河岸(かし)」の布佐には、小字で「網代場」と称する地名が残っています。かつて、ここは手賀沼と利根川に連なる水路のあった場所で、寛文11年(1671年)に布佐に堤防ができる前後には、魚をとるための番屋が建ちはじめ、そのうち手賀沼の新田開発のための干拓事業が盛んになり、荷物の水揚場として栄え、堤の上に布佐の街村が形成されてきました。
利根川と水運
17世紀中葉の承応年間に、徳川幕府は江戸を洪水から守るため、利根川の流れを江戸から銚子へ変える工事を行いました。
街道の往来が必ずしも容易でなかったこの時代、利根川は天然の通路として不可欠のものでした。やがて網代場は魚をとる場所ばかりでなく、荷物を積み下ろしする船着場として、さらに銚子と江戸の間に港津としての「河岸」が開けると、河岸問屋の隆盛にともない沿岸の農村にも江戸文化が流入し、庶民の生活は除々に向上し大きな影響をもたらしました。利根川の水運は、近代になり白帆で走る「高瀬舟」から「蒸気船」に変わり、沿岸の河岸は物資輸送の基点として栄えました。
その後、明治29年の常磐線、同34年の成田線の鉄道開通により大量輸送がはかられ、利根川の水運も衰退しはじめ、昭和に入り大利根橋や栄橋が架橋され、道路交通の便も良くなり消滅しています。
古利根沼
利根川百景の一つである古利根沼は、明治末期、度重なる水害をなくすために利根川の改修工事が行われた結果、蛇行部分が残ってできた沼です。ありし日の利根川の姿や風情を今にとどめて、心をなごませてくれます。
古利根沼の歴史
かつて利根川はしばしば氾濫をくり返し、我孫子でも長年の間、人々は水害に苦しめられてきました。現在の利根川は、水害克服のため近代の大改修を経た後の姿で、昔の面影は残っていません。その中にあって、古利根沼は、ありし日の利根川の姿と風情とを、そのまま今にとどめている貴重なところです。
改修前の利根川は、我孫子の青山から湖北の根古屋(ねごや)にかけて南側へ大きく迂回して流れ、しばしば堤防が切れて大きな被害をもたらしました。そこで明治末期に着工された利根川改修工事で河道を直線に改めた結果、このわん曲している部分が、川の流れからはずれてそのまま残り沼となったのが古利根沼です。
沼の東側は、中世の利根川を見下ろした「芝原城祉」のある丘陵へと続き、斜面の緑は昔の利根川の面影をそのまま残しています。沼の北側には、改修により茨城県取手市の飛地となった小堀(おおほり)の集落があります。小堀は、江戸時代には利根川沿岸屈指の船着場と言われ、水運の基点として栄えた有様が「利根川図志」などに記されています。
現在の古利根沼は周囲の緑に囲まれ、利根川からあがってくる種々の魚の釣り場として多くの市民に親しまれる場所となっています。