手賀沼の沿革
美しかった手賀沼
昔の手賀沼は、豊かで清らかな水を堪え、農業用水や漁業の場として盛んに利用されてきました。
沼の中には水生植物が繁茂し、植物を餌とする魚類やエビ類、その魚類やエビ類を餌とする鳥類など、多種多様な生物が生息していました。水生植物の中には、「ガシャモク」や「テガヌマフラスコモ」など手賀沼など一部の地域にしか生息していない貴重な植物も見られました。
また、四季折々の風景は多くの詩人や文人を魅了し、優れた作品が数多く誕生しました。現在でも、手賀沼はたくさんの人々の憩いの場としてかけがえのない財産となっています。
手賀沼と干拓
かつて関東平野には、奥深く海が入り込み「香取海(かとりのうみ)」と呼ばれていました。手賀沼は香取海につながる入り江で、「手下水海(てがのみずうみ)」などと呼ばれていました。印旛沼も香取海につながる入り江の一部でした。海は次第に退き、近世に入る頃には、手賀沼は布佐・大森地先にあった川口と呼ばれる水路(現在の六軒川)で外とつながっているのみとなりました。
江戸時代以降は、洪水を防ぐための堤防や排水路の工事と干拓による新田の開発が積極的に行われるようになりました。
江戸時代初期には江戸の商人海野屋作兵衛が干拓事業にあたり、約15年間で232ヘクタール弱の新田を開発したものの、その後の度重なる洪水によって壊滅してしまいました。1727年、幕府は井沢為永に命じて、再び手賀沼の干拓に着手しました(享保の干拓)が、これも洪水により壊滅してしまいました。1785年には老中田沼意次の命によって「天明の開墾」が始まりましたが、1786年に「天明の大水」と呼ばれる利根川洪水が発生し、手賀沼一帯が大洪水となり、失敗に終わりました。その後もたびたび埋め立てを行い、新田開発が計画されましたが、成功しませんでした。
現在、布佐浅間前新田に残る井上家は幕府が進めた干拓事業を中心的に進めた豪農で、江戸のたたずまいを今に伝える貴重なものです。
<旧井上家住宅>
戦後の干拓
干拓が成功したのは戦後になってからで、食糧増産の急務が叫ばれたのを契機に、昭和21(1946)年に国営印旛手賀沼干拓建設事業が着工され、昭和43(1968)年に完成しました。この干拓と同時に、手賀沼と利根川の合流部地先に手賀沼排水機場が新設されました。
汚濁した手賀沼
一方、昭和30年代後半頃から始まった手賀沼流域での急速な都市化に伴う生活排水の流入により、手賀沼では急激に水質汚濁が進行しました。その結果、昭和49(1974)年度から平成12年までの27年間にわたって湖沼水質汚濁日本一という不名誉な記録が続きました。
これまで市では、手賀沼の浄化・再生に向けて下水道の整備などに積極的に取組んできました。また、千葉県によるヘドロのしゅんせつ(平成17年度まで)、国による北千葉導水事業、市民や手賀沼水環境保全協議会(流域市村・県・団体などで組織)による様々な浄化対策事業などが実施されてきました。
現在の手賀沼
このような長年の浄化への取組みによって、平成13年に湖沼水質汚濁ワースト1を返上することができました。
また、最近では、水質悪化時に手賀沼から姿を消した生物の復活が少しずつ確認されています。
しかし、手賀沼が浄化されてきたとはいえ、未だに国の定める環境基準(COD値:5.0ミリグラム毎リットル以下)には達しておらず、引き続き更なる浄化への取組みが必要です。
今後もさらなる手賀沼の水質改善のため、国・県・流域自治体や市民が連携して浄化をめざした取り組みを展開していきます。