杉村楚人冠記念館 杉村楚人冠とは
杉村楚人冠とは
杉村楚人冠(本名・広太郎)は、明治末期から昭和前期の東京朝日新聞で活躍したジャーナリストです。日本で初めて新聞社に調査部や記事審査部を設け、新聞の縮刷版を企画、発行するなど、先進的な新聞人でした。
一方で、独特の皮肉とユーモアにあふれた文章は人気を博し、まだ現役の文筆家として活躍しているうちから全12巻の予定で全集が刊行され、さらに増刊されて18巻にも及ぶほどでした。
楚人冠は関東大震災で二人の子どもを失ったのを機に一家で我孫子に転居しました。以後、我孫子ゴルフ倶楽部の建設を町長に進言したり、手賀沼の干拓に反対し景観保護活動に取り組むなど、風光明媚な郊外の住宅地、観光地としての我孫子の発展に尽力しました。一方、主宰した俳句結社「湖畔吟社」をはじめ、我孫子の人々と親しく交わり、慕われました。
1872年 (明治5年) |
和歌山城下谷町に旧紀州藩士の子として生まれる |
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1886年 | 学級編成につき校長と衝突し和歌山中学を退学 |
1887年 | 上京、英吉利法律学校(現在の中央大学)入学 |
1889年 | 国民英学会に入学しイーストレーキの教えを受ける |
1890年 | 青年文学会設立に加わり、国木田独歩らと活動 |
国民英学会卒業 | |
1892年 | 『和歌山新報』に招かれ主筆として編集一切に当たる |
1893年 | 『和歌山新報』退社、再上京 |
ユニテリアン協会設立の自由神学校(後の先進学院)入学 | |
1894年 | 仏教革新運動のため古河老川らと経緯会を設立 |
1896年 | 先進学院卒業 |
西本願寺文学寮の舎監兼英語・国語教師となり、京都・八条で母と同居 | |
1898年 | 学校改革をめぐって当局と対立し文学寮退職、上京 |
『欧文反省雑誌』主筆として編集に従事(~翌年9月) | |
社会主義研究会(1900年から社会主義協会)に参加 | |
1899年 | 高島米峰・境野黄洋らと仏教清徒同志会(のちの新仏教徒同志会)結成 |
先進学院のマッコレイの推薦で米国公使館に入り、翻訳・通訳に従事 | |
1903年 | 米国公使館を退職し東京朝日新聞社に入社、海外紙や外電の翻訳に当たる |
1907年 | 伏見宮の渡英に際しロンドンに特派、ザ・タイムズなどと懇親 |
1908年 | 朝日新聞社主催世界一周会を企画、一行を引率 |
1911年 | 東京朝日新聞に調査部を設置、これより12年間調査部長を務める |
手賀沼の鴨猟を取材、その風景に魅せられ翌年我孫子に別荘を設ける | |
1914年 (大正3年) |
第一次世界大戦始まりロンドンに特派される |
1919年 | 日本初の新聞縮刷版を発案・編集 |
1922年 | 東京朝日、大阪朝日の記事審査部創設に尽力 |
1923年 | グラフ局長として、初の日刊写真誌『アサヒグラフ』創刊 (大震災による休止を経て11月から週刊) |
関東大震災で二男・三男の二児をうしなう | |
1924年 | 一家で我孫子町に転居 |
1931年 (昭和6年) |
湖畔吟社第1回句会、俳句を通して地元との交流を深める |
1937年 | 『楚人冠全集』全12巻日本評論社より刊行開始(1943年までに全18巻に増刊される) |
1945年 (昭和20年) |
10月3日 心臓病のため我孫子の自宅で永眠 |