我孫子市の平和のシンボル
我孫子市は、核兵器の廃絶と恒久平和を願い、昭和60年12月に「平和都市宣言」を行いました。
平和事業に取り組む中で、様々な平和のシンボルを手賀沼公園に設置しています。
平和の記念碑
1985(昭和60)年12月、広島市から原爆で被爆した旧市庁舎の側壁と敷石を我孫子市原爆被爆者の会が譲り受け、翌年8月市が手賀沼公園に「平和の記念碑」を建立しました。以後、毎年8月に平和の記念碑前で、我孫子市原爆被爆者の会とともに、平和祈念式典を開催しています。
平和の灯
広島平和記念公園にある「平和の灯」は、1964(昭和39)年に、全国12宗派から寄せられた“宗教の火”と全国の工場地帯から届けられた“産業の火”が、核兵器の廃絶と恒久平和を願い点火されたものです。
我孫子市は、この「平和の灯」から火を譲り受け、2015(平成27)年8月15日に、その年の広島派遣中学生の手により、手賀沼公園に点灯しました。この灯は、地球上から核兵器がなくなるまで燃やし続けます。
陽光桜
2016(平成28)年1月15日、市が行うさくらプロジェクトの一環として、我孫子市原爆被爆者の会の皆さんの手により、平和の記念碑そばに植樹しました。
陽光桜は、戦時中に青年学校で教鞭をとっていた高岡正明氏が開発した桜です。高岡氏は出征を見送った教え子たちの戦死を悼み、「平和の象徴のさくらを世界に広めることが人生最大の仕事」と、品種改良に20数年の情熱を捧げました。
現在、平和のシンボルとして、世界中で陽光桜の植樹が行われています。
禎子鶴
広島平和記念公園にある「原爆の子の像」のモデルとなった佐々木禎子さんが、生前に折った大変貴重な折り鶴です。我孫子市の平和事業に共感した禎子さんの兄・雅弘さん、甥・祐滋さんから、2015(平成27)年12月に寄贈されました。現在、生涯学習センター「アビスタ」に常設展示しています。
佐々木禎子さん
1943(昭和18)年広島に生まれ、2歳の時に、爆心地から1.6kmの自宅で被爆。10年後の12歳の時、突然白血病を発症しました。
禎子さんは闘病中、「生きたい」と願いながら、薬やキャラメルの包み紙で千羽鶴を折り続けましたが、願い叶わず、1955(昭和30)年10月25日の朝、わずか12歳という若さで、その命を閉じました。
その後、同級生が立ち上がり、「原爆の子の像」が建てられました。この像は平和のシンボルとなり、世界中から千羽鶴が贈られています。
被爆アオギリ2世・被爆クスノキ2世
2012(平成24)年、広島市から被爆アオギリ2世、長崎市から被爆クスノキ2世の苗木を譲り受け、その年の長崎派遣中学生の手により、手賀沼公園に植樹しました。
アオギリ2世は、広島の爆心地から1.3キロメートルで被爆したアオギリの子孫、クスノキ2世は長崎の爆心地から800メートルで被爆したクスノキの子孫です。
原爆投下後は数十年間草木も生えないと言われていましたが、アオギリもクスノキも、奇跡的に生き延びて新たな葉を芽吹き、その姿は打ちのめされた人々に生きる勇気と希望を与えました。
手賀沼公園 平和記念碑マップ
平和のシンボルの設置場所を示す手賀沼公園内のマップ。
リンク
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我孫子市の平和事業や平和事業推進市民会議の取り組みについて紹介しています。
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