杉村楚人冠生誕150年記念展示「杉村楚人冠の青少年時代―名ジャーナリストの原点を探る―」
展示概要
今年、杉村楚人冠は生誕150年を迎えました。それを記念して、楚人冠の青少年時代に焦点を当てた展示を行ないました。
和歌山に生まれた杉村広太郎は、どのような人と出会い、どのようなことを学んで、ジャーナリスト杉村楚人冠となったのでしょうか。
残された資料や書簡をもとに、楚人冠の青少年時代を紐解きました。
※本展示では趣旨に基づき、楚人冠を「広太郎」と呼びます。
展示期間
令和4年7月21日(火曜日)から10月2日(日曜日)
展示内容
1 ジャーナリズムの目覚め
杉村広太郎 退学御願
広太郎は幼い頃から日記に興味を示し、自らも学校であった出来事を書き残すようになりました。
広太郎による詳細な日記の記述のおかげで、当時の和歌山中学で起きたストライキの顛末を知ることができます。
この出来事をきっかけに広太郎は中学を退学し、上京を果たすのです。
『天外散誌』第1 号
この中学校で、広太郎は後の親友と出会うこととなります。それが、古河勇です。
古河は寺の息子だったこともあり、仏教に強い関心を示していました。
そんな古河は中学退学後に広太郎と、『天外散誌』と名付けた雑誌による文通を始め、その仲を深めていきます。
2 批評の力をつける
切抜 縦横生「青年は果して厭世家なるへきや」
広太郎は、青年文学会が発行する『青年文学雑誌』等の公刊雑誌へと活動の幅を広げていきます。
大家ありきの『青年文学雑誌』を、会員の意見発表と討論の場である『青年文学』へと押し上げたのは、広太郎でした。
広太郎は着々と、批評の力をつけていくことになります。
3 英語を極める
広太郎は本格的に英語を学ぶために国民英学会に入学し、強い師弟関係を結ぶこととなる博言博士イーストレーキと出会います。
広太郎はイーストレーキに認められ、生涯にわたってイーストレーキの仕事である出版・教育事業に携わっていきます。
この書簡は、イーストレーキと三省堂が協力して制作にあたった日英辞典の編さん補助を、広太郎に依頼するものです。
大嶋伝内書簡[ 三省堂発刊日英辞典編集協力依頼のイーストレーキの書状郵送に付]
4 宗教を深める
広太郎は、仏教だけでなくキリスト教も学んでいた古河の勧めで、キリスト教の一派ユニテリアンの学校である自由神学校に入学します。
ここで広太郎は、仏教と他の宗教を比較して共通点や問題点を見出す視点を身につけました。
広太郎は仏教改良運動を進めていきますが、その隣に、明治32(1899)年11 月、結核のため29 歳の若さで亡くなった古河の姿はありませんでした。
杉村広太郎 原稿『仏教は普通の意義に於ける宗教なるか』先進学院1 年級のレポート
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