杉村楚人冠記念館平成25年度夏期企画展講演会
平成25年度夏期企画展「新聞記者・楚人冠の足跡」にあわせて講演会を開催しました。
講演会「楚人冠 明治の凶作地を歩く」
講師 玉木 研二 氏(毎日新聞専門編集委員)
平成25年9月14日(土曜日) 生涯学習センターアビスタ ホールにて開催
講演要旨
私は毎日新聞社の情報調査部で明治時代の記事を見ていた中に楚人冠の「雪の凶作地」を見つけ、大変感銘を受けた。東日本大震災が起き、楚人冠が歩いた先々でも震災の被害が出た。放射能汚染のため全村避難となった地域も含まれている。明治29(1896)年に三陸を襲った大津波のときに、毎日新聞の前身『東京日日新聞』には、東京の人間たちにこの惨状を知らせたいという趣旨の記事があった。「雪の凶作地」にも同じ趣旨の言葉が出てくることが印象的であった。おそらく、今の被災地の方々にも同じような感情があるのではないか。
先日、楚人冠が歩いた地でもある飯館村に行った。風景は美しいが、ただ今、人の声が足りない。胸が締め付けられる思いであった。楚人冠が大変な凶作の中回った、標高400メートルあまりの限られた平地に作られ、守られてきた田畑の多くが荒れていた。行く先々で、楚人冠がここを歩いたであろう光景を描きながら、彼ならこれをどう表現しただろうか、どういう提言をしただろうかと考えた。
「雪の凶作地」はいくつかの点で、我々記者の模範になり得る。彼はこの取材で緻密な計画を立てていた。無暗に列車を飛び下りて山に入っていくのではなく、まず地元の役人など関係者に取材している。そして興味深いことには案内人が同行している。これは、地元の人たちには窮状を全国に知ってほしいという欲求があったことを物語っている。この頃、新聞以外にメディアがない。新聞が報じる一行一行が大変影響力を持っていた。そして、最も弱い子どもや老人にしっかり目を向け、しかも感情的でなく、しっかり抑えの利いた文章になっている。そして、数字で裏付けを取っている。
彼が取材に入っていかなかったら、このとき窮乏していた人々の声が歴史に刻まれることはなかったであろう。楚人冠は早くに父を亡くし、さみしい少年時代を過ごした。それがこうした人々に目を向けさせる要因ではなかったか。また一方で彼は漢学や英語など幅広い学習をしていた。そこで培われた学問的態度というのもあっただろう。
楚人冠は色々な方面に才覚を発揮した。寸評はその最たるものであるし、調査部を創設したことも大変な慧眼である。楚人冠が書いた「調査部員の心得」は今でも通用するものになっている。楚人冠が始めた調査部の切り抜きの蓄積がなければ書けない記事もある。現在は、データベース化が進みキーワードを入れれば簡単に目的の記事を探せるが、味のある意外な関連記事にはなかなかたどりつけない。楚人冠自身も非常にきれいにスクラップを作って保存していた。それゆえに楚人冠は今でも研究の対象になるのだと思う。
ただ、やはり楚人冠の特徴は人間的な魅力にあると思う。楚人冠は様々な苦労を重ねているが、彼のどこかには明るさが流れている。彼がこの我孫子の地で地元の人たちと語らい、俳句の会を作ったのがその象徴ではないかと思う。また、ここから伝書鳩で東京へ原稿を送っていたという話があるが、我孫子の風光も合わせて、そういう風景が似合う人であると思う。その明るさがあるから、もし楚人冠が今この時代に生きていたら、品のいい風刺をこめて、我々に想像できないことを言ってくれるのではないかという気がする。