夏休み特別展示「ジャーナリスト楚人冠ってどんな人?」
明治、大正、昭和と、東京朝日新聞社にて国際的ジャーナリストとして活躍した杉村楚人冠。
彼の人生と、その中で成し遂げた仕事、そして出会った人々を、書簡や書籍などの資料と共に分かりやすくご紹介しました。
展示期間
令和6年7月2日(火曜日)から9月23日(月曜日・休日)まで
展示内容
1 和歌山にて
楚人冠(本名・広太郎)は、明治5年(1872)に和歌山県で生まれました。幼くして父を亡くした広太郎は、母とみに貧しいながらも厳しく愛を持って育てられました。
日記や読書感想文を書いたり、友達と野山を駆け回って遊んだりして、広太郎の少年時代は過ぎていきました。
2 上京して
広太郎は弁護士になるため15歳で上京しましたが、しばらくすると法律の勉強をやめ、英語を学び始めました。広太郎はめきめきと上達し、英語教師として教壇に立つまでになったのです。
その他にも自身の得意分野を活かして、新聞や雑誌の編集者、米国公使館での勤務なども行ないました。この公使館の勤務で誕生したのが、広太郎のペンネーム「楚人冠」でした。
3 ジャーナリスト楚人冠
楚人冠は明治36 年(1903)31 歳の時に東京朝日新聞社に入社を果たします。これより73歳で亡くなるまで、楚人冠はジャーナリストとして活躍し続けることになります。
楚人冠は自身の青少年時代に培った知識や経験、人脈などを活かして、仕事に励みました。彼の書く文章は朝日の読者をとりこにし、楚人冠は瞬く間に東京朝日の看板記者になりました。
4 我孫子での暮らし
楚人冠は晩年21年間を、我孫子で過ごしました。我孫子での暮らしの様子は、楚人冠の随筆『湖畔吟』にのこされています。
楚人冠がみた我孫子の魅力や面白さが詰まった文章の数々を読むと、当時の我孫子が蘇ってくるようです。
宿直日誌
石川啄木からの手紙
「アサヒグラフ」創刊号表紙
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