夏目漱石没後百年記念企画展「楚人冠と漱石 ~新聞と文学と」
展示概要
開催期間
平成28年10月8日から平成29年1月9日
展示趣旨
杉村楚人冠と夏目漱石は明治40年から漱石が亡くなるまで東京朝日新聞の同僚でした。二人の交流は、新聞と文学の歴史にどんな意味を持ったのか。また二人の交流から見える漱石の人間性とは。杉村楚人冠宛の夏目漱石の手紙から考えます。
1 新聞社で
東京朝日新聞社での二人の活動にかかわる手紙を3通展示しました。平成28年に寄贈された資料から発見された、会社への電話のかけ方を漱石が楚人冠に聞いている手紙も初めて展示しました。
漱石宅の電話番号が書かれている夏目漱石書簡(新発見書簡)
2 『それから』にこめた思い
夏目漱石の『それから』の終盤に、楚人冠が書いた記事「幸徳秋水を襲う」の内容を取り入れた部分があります。登場人物に「現代的滑稽の標本」と語らせた、その内容を紹介しました。
著書『それから』を贈呈すると記した漱石の手紙
3 英語に親しむ
英語を独学する青年を主な読者とした雑誌『英語青年』に楚人冠と漱石の熟語の用法をめぐる議論が載せられたことがあります。漱石の手紙から、ユーモアを交えて二人が議論する様子を紹介しました。
英熟語の用法をめぐっての漱石の手紙
4 愛児の死を越えて
楚人冠と漱石はともに幼い娘を亡くした経験を持ちます。平成28年に寄贈された資料から新たに見つかった漱石が楚人冠に送ったお悔やみの手紙とともに、楚人冠の娘の死を漱石に伝えた中村古峡という人物を紹介します。
漱石からのお悔やみの手紙(新発見書簡)
漱石書 漢詩
5 漱石の病
漱石が持病の胃潰瘍で始めて入院する前日に送った手紙、快復後楚人冠の求めに応じて書いた漢詩の書を展示しました。漱石の書には、「病中之作」と書くはずのところをつい「春日偶成」と間違えたというエピソードが残っています。