南方熊楠生誕150年記念展示「『知の巨人』熊楠と新聞人楚人冠」
南方熊楠生誕150年記念展示「『知の巨人』熊楠と新聞人楚人冠」
その博覧強記ぶりから「知の巨人」と称される南方熊楠、その生誕150年を記念する展示を行いました。
杉村楚人冠は熊楠と若いころからの友人であり、また熊楠の業績である神社合祀反対運動では協力者であったことにちなみ、杉村楚人冠記念館の資料に南方熊楠顕彰館(和歌山県田辺市)の資料も加え、二人の手紙のやり取りを中心に、熊楠の生涯を紹介しました。
展示期間
平成29年10月7日(土曜日)から平成30年1月8日(月曜日・祝日)まで
展示内容
南方熊楠の手紙に添えられた絵「南方杉村の書を得るところ」
1 二人の出会いと文通
南方熊楠と杉村楚人冠が親しくなったのは、楚人冠が中学生のときと考えられます。その後、熊楠はアメリカへ、楚人冠は東京へ旅立ち、二人の文通が始まりました。熊楠の手紙には、楚人冠の手紙を待ちわびた様子が見てとれます。
楚人冠のスクラップブックから「三年前の反吐」
2 熊楠を全国に紹介
アメリカ、イギリス留学の後、生活資金の問題でやむなく帰国した熊楠。すでに科学誌『ネイチャー』への投稿が採用されるなど、学者としての歩みを固めていましたが、日本ではまったく無名の存在でした。その熊楠を「隠れたる世界的の大学者」として『大阪朝日新聞』で紹介したのが、新聞記者になっていたかつての文通相手、楚人冠だったのです。
楚人冠のスクラップブックより「乱暴なる神社合祀」
3 神社合祀に反対
神社の国家統制の一環で、小さな神社を廃絶させ、大きな神社へ統合してしまおうとしたのが神社合祀政策です。熊楠が関心を持つ民俗信仰の拠点である神社がなくなり、、また新種の粘菌を発見した貴重な生物の宝庫である神社林が伐採され売られていくことに熊楠は憤り、新聞への投書や有力者への手紙で反対を訴えました。
楚人冠もその手紙を受け取り、その情報をもとに「乱暴なる神社合祀」など、その非を訴える記事を書きました。
南方熊楠の手紙(昭和4年)
4 天皇御進講
昭和4年、昭和天皇の和歌山行幸にあわせ、熊楠による御進講が行われます。無位無官の人物の御進講は異例であるだけに、楚人冠もどこからか情報を得て熊楠に記者が取材に行ったらよろしく、と手紙を出しますが、熊楠からの返事はこれをにべもなく断ってしまい、代わりに夭折した二人の共通の旧友、羽山兄弟の妹に会った話を長々と書いてきたものでした。一世一代の御進講を前にして、楚人冠に伝えたかったのは旧友の思い出だったのでした。
本展示の開催に際しては、南方熊楠顕彰館(田辺市)にご協力いただきました。