企画展「嘉納治五郎と手賀沼 幻の東京オリンピックをめぐって」
展示期間
令和元年7月9日(火曜日)から10月6日(日曜日)まで
展示概要
戦争のため幻に終わった1940年東京オリンピック。その誘致に尽力したのは、我孫子に別荘と農園を持つ嘉納治五郎でした。実は、手賀沼沿岸の人びともこの縁を頼りに、オリンピック競技会場を手賀沼に誘致しようと動いていました。
平成30年に旧井上家資料のなかから新たに見つかった初公開の書簡を交え、そんな歴史を掘り起こします。
1. 嘉納治五郎と手賀沼
嘉納治五郎から杉村楚人冠への書簡
嘉納治五郎は明治44年に我孫子に別荘と農園を構えました。ただ別荘に通うだけでなく、杉村楚人冠や村川堅固と手賀沼干拓反対の運動に取り組み、また我孫子の町長ら有力者と座談会を開催して地元の人びとと親しい関係を築き、ともに手賀沼を生かして我孫子の発展を考えていくスタンスを取っていました。
2. 嘉納治五郎と幻の東京オリンピック
体育教育の知見に富み、また英語に堪能であったことから、嘉納は国際オリンピック委員会委員に就任しました。東京オリンピックの招致にはアジア初の委員となった嘉納が大いに貢献したのです。しかし、招致決定の翌年から日本は日中戦争に突入、1938年カイロでの総会で嘉納は懸念の払拭に努めますが、帰途の船上で逝去、同年大日本帝国政府は大会返上を決めてしまいます。
この間の経緯を、国会図書館資料の嘉納治五郎書簡から紹介しました。
3. 手賀沼と幻の東京オリンピック
染谷正治から井上武への書簡
一時は手賀沼沿岸でも嘉納を頼りに競技会場誘致の動きがありました。中心になったのは我孫子町長の染谷正治です。さらに、布佐町には帝国大学漕艇部出身で漕艇競技界に人脈を持つ人物がいました。それが相島新田の開拓地主井上家の当時の跡継ぎであった井上武です。染谷と井上が協力し合い、誘致が進められました。
平賀平作から井上武への書簡
最大のライバルは人工のコースを新設する計画の埼玉県戸田でした。手賀沼側の売りは、コース新設の半額ですむとアピールしたコストの安さです。しかし、最終的には戸田に軍配が上がり、手賀沼での開催は大会返上の前に幻となってしまいました。実は、コース決定の直前に、嘉納から我孫子町役場へ電話が入り、染谷正治町長と井上武が上京を要請されたことが、井上家資料から見つかった我孫子町助役平賀平作の手紙に書かれていました。最後まで嘉納が世話を焼いてくれたことがわかったのです。
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