冬期企画展「手紙にみる歴史の断片」
ジャーナリストであった杉村楚人冠には、多種多様な立場の人々から、手紙が送られました。
その膨大な手紙の中から今回は、当時の事件や戦争に関わる手紙を展示しました。
当時の人々は、後世まで歴史に残ることとなる出来事について、どのように感じていたのでしょうか。
展示期間
令和4年10月8日(土曜日)から令和5年1月9日(月曜日・祝日)
展示内容
ノルマントン号事件
ノルマントン号事件とは、明治19 年(1886)10 月24 日に、イギリス商船ノルマントン号が沈没し、乗船していた日本人客全員が溺死した事件です。同じく乗船していたイギリス人乗組員らは、日本人を見捨て、全員脱出したため無事でした。領事裁判権に基づいたイギリス領事での裁判では無罪、その後も大した罪に問うことはできませんでした。
小川琢治は、和歌山県出身の地質学者です。和歌山中学校における楚人冠の先輩にあたります。当時上京していた小川は、和歌山にいる楚人冠に、ノルマントン号事件をはじめとした、東京で話題になっている事件に関する情報を手紙で送っていました。
差出人不明(浅井[小川]啄治?)書簡[ノルマントン号沈没の件に付き]
日露戦争
日露戦争は、明治37 年(1904)から開戦した、日本とロシアに
よる戦いです。この戦争は、朝鮮と満州の支配をめぐり勃発しました。
植村宗光は、楚人冠に禅の指導をした釈宗演の弟子です。植村からの手紙には、戦争による殺し合いの恐ろしさと、はやく元通りの修行三昧の日々を送りたいという平和への願いが綴られています。
植村はこの戦争にて、戦死しました。
植村宗光書簡[満州の戦地からの近況に付き]
大逆事件
大逆事件は、 明治44 年(1911)に、長野県の職工・宮下太吉をはじめとした明治天皇の暗殺を計画したとして、多くの社会主義者・無政府主義者が弾圧された事件です。実際にこの爆弾による宮下の暗殺計画に共鳴し、関与したのは、管野須賀子ら4 名のみでしたが、最終的に首謀者とされた幸徳秋水ら26 名が罪に問われ、内12 名が死刑に処されました。
冤罪により処刑されそうな幸徳を救おうと、管野は楚人冠に獄中から針文字書簡を送ります。この書簡で管野は、幸徳に弁護士の世話をしてくれるよう頼んでいます。
当時、朝日新聞社に校正係として勤めていた石川啄木も、大逆事件の容疑者らが死刑を宣告された日の社内の様子を綴った手紙を楚人冠に送っています。
管野須賀子(スガ)書簡(針文字書簡)[大逆事件の精査と幸徳の弁護 士斡旋依頼]
石川一(啄木)書簡[年賀の葉書の有難い言葉に付き]
2・26事件
2・26 事件は、昭和11 年(1936)2 月26 日に起こった、武力
による国家改造等を求めた陸軍の皇道派青年将校22 名によるクーデターです。
鈴木文史朗は、楚人冠と同じく朝日新聞社で活躍したジャーナリストです。鈴木が楚人冠に送った葉書には、皇道派を激しい言葉で批判する文章が英語で書かれています。ここで鈴木は、ジャーナリストであることが恥ずかしいと述べています。なぜ鈴木がそこまで言い切ったのか、皆さんぜひ理由を考えてみてください。
鈴木文史朗書簡[日本人でありジャーナリストであることが恥ずかしいとの手紙]
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