テーマ展示「てがみ展 楚人冠の仕事を支えた人びと」
展示概要
名ジャーナリストとして東京朝日新聞社で活躍した杉村楚人冠ですが、彼は一人で仕事をしていたわけではありません。
今回の展示では、楚人冠を支えた頼れる仕事仲間たちをご紹介しました。
展示期間
令和5年1月11日(水曜日)から令和5年3月5日(日曜日)まで
展示内容
楚人冠の東京朝日新聞社入社
楚人冠の朝日入社に深く関わった人物の一人が、当時主筆を務めていた池辺三山です。池辺はこの時、英語が堪能な人材を求めており、米国公使館の通訳として働いていた楚人冠に目をつけました。
そんな池辺からの書簡には、明治39 年の東北地方の大凶作による大飢饉を生々しく取材した楚人冠の記事によって、「凶作救援義捐金」が順調に集まっていることが記されています。
池辺吉太郎[三山]書簡[飢饉真況を伝える貴兄の記事は救恤義金に大いなる力となっている に付き]
社会部を育てる
楚人冠は前述の池辺が行なっていた社会部の改革に賛同し、その手伝いをしていました。当時社会部の記者は「軟派」と呼ばれ、社内で低い評価を受けていたためです。
渋川玄耳は、この社会部改革をより一層進めた人物です。渋川は新聞記者たるもの、どの部の志願であっても、社会部で経験を積まなければ一人前の記者とは言えないという理念を持っていました。そんな渋川は楚人冠に、自身の社内での孤独を吐き出すような書簡を送っています。
玄耳[ 渋川柳次郎] 書簡[「社中では君より外に弱音ははけない」と胸中を述べた旅先からの 手紙]
外国特派を支える
楚人冠はその英語の堪能さを買われ、何度か外国特派員として海外へと赴きました。
米田実は、楚人冠が第一次世界大戦の取材に特派された際の外報部長です。この戦時中、朝日の社長・村山龍平は、中立国でありながらドイツの侵略を受けたベルギー、そして戦うベルギー国王に敬意を表し、太刀一振りを献上します。その使者として国王に謁見したのが、特派員の楚人冠でした。米田からの書簡には、この太刀を楚人冠の元に送る手配をしている旨の記述が確認できます。
米田実書簡[ベルギー皇帝への太刀献上の件など社内の近況報告]
『アサヒグラフ』の創刊
楚人冠は大正12 年に、写真週刊誌の先駆けとも言える写真新聞『アサヒグラフ』を創刊します。
この『アサヒグラフ』で重要な写真の担当をしていたのが、成沢玲川です。成沢からの書簡には、楚人冠への病気見舞いとお見舞い品の送付について、また、調査部長に転任した旨が述べられています。
成沢金兵衛[玲川]書簡[ 病気経過伺いと見舞い品送付及び調査部長転任に付]
『楚人冠全集』をつくる
楚人冠は生きていながら全集の制作が計画され、出版された特異なジャーナリストでした。それだけ楚人冠の文章は愛されていたのです。
そんな『楚人冠全集』の刊行に関わった石堂清倫は、12 巻の刊行を終えた後、満鉄調査部に転職します。中国に到着してひと段落した際に書いたであろう書簡を、今回は展示しました。
石堂清倫書簡[大連に移転して荷物の中から全集発見に付礼状]
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