没後70年記念展示「血脇守之助 ~我孫子が生んだ歯科医学の功労者」
没後70年記念展示「血脇守之助 ~我孫子が生んだ歯科医学の功労者」
血脇守之助という人物を知っていますか?
我孫子生まれの我孫子尋常小学校(現在の我孫子第一小学校)卒業生で、日本の歯科医学界をリードした人物です。没後70年の機会に、血脇の功績を紹介する展示を開催しました。
展示期間
2017年3月7日(火曜日)から5月14日(日曜日)まで
1 歯科医学への道
我孫子尋常小学校では成績優秀、校長の杉山英からは夜間に私塾で漢学を教えられたといいます。弱冠12歳で上京しいくつかの学校に通った後、新聞記者、英語教師を経て、高山歯科医学院に入り歯科医の道を志します。
無事開業免状を取得した血脇は院長高山紀斎の信任を得て、経営にも携わるようになります。
経営を受け継いでからは東京歯科医学専門学校への昇格を果たし、現在のように高等教育機関で歯科医が養成される仕組みの先駆となりました。このことが、戦後の東京歯科大学創立につながります。このように歯科医の地位向上に尽くしたことは血脇の重要な功績です。
成績優秀者の賞状(旧姓の加藤になっています)
高山歯科医学院
2 野口英世を世に出す
血脇は野口英世の恩人としても知られています。会津で出会ったときに上京したら立ち寄るようにと声をかけ、、上京後は高山歯科医学院の寄宿舎に住まわせて仕事を与え、アメリカ留学に当たっては送別会で渡航費を使い込むという野口の不始末にもかかわらず、費用を工面して無事送り出しました。野口の成功は血脇に支えられていたのです。
左 野口英世 中央 血脇守之助
3 郷土のために
血脇は杉村楚人冠や嘉納治五郎、村川堅固らが中心となった手賀沼干拓反対運動に賛同していました。
また、恩師杉山英の顕彰碑を同窓生とともに建て、杉山に伽羅の木を贈るなど、郷土のことを忘れることはありませんでした。
4 血脇を偲ぶ
現在、我孫子市内で血脇を偲ぶことのできる場所として、手賀沼公園の一角にある血脇先生謝恩之碑があります。東京歯科医学専門学校時代に高山歯科医学院創立から50周年を記念する事業の一環として建てられたもので、除幕式には我孫子の人々も大勢集まりました。
除幕式に集まった人々
このページに掲載した資料や写真は、東京歯科大学から提供されたものです。
本展示の開催にあたっては東京歯科大学の協力により、同大学所蔵の資料を多く展示しました。
過去の企画展、講演会などイベントのリストへのリンクです