企画展「三島海雲と杉村楚人冠 カルピスと友情の物語」
展示概要
大正8年(1919年)7月7日、おなじみの乳酸菌飲料カルピスが発売されました。本展示の開催年、2019年はそれから100周年にあたることから、そのカルピスを開発し売り出した三島海雲という人物と、杉村楚人冠の間の切っても切れない縁、さらにはカルピスをめぐる、二人を中心とした様々な人びとの友情を紹介する展示を行いました。
展示期間
平成31年3月12日(火曜日)から令和元年5月12日(日曜日)まで
カルピス誕生まで
三島海雲が清から帰国後のはがき
三島海雲と杉村楚人冠の出会いは西本願寺文学寮(現在の龍谷大学)で、生徒と教師という関係でした。卒業後、三島は清国に渡り起業しますが、紆余曲折を経て無一文で帰国。しかし、内モンゴルで出会った酸乳を商品化しようと希望に燃えていました。文学寮時代に三島の気質を見込んでいた楚人冠は、友人として自ら出資者となるばかりでなく、自分の友人たちを紹介して、三島を応援します。こうして、実業之日本社からクリーム「醍醐味」が発売されました。
脱脂乳の商品開発について伝える三島の書簡
「醍醐味」は生産が追いつかず失敗に終わりましたが、そこで三島が目をつけたのがその副産物である脱脂乳でした。出資者の一人土倉龍治郎も同じ考えであることを楚人冠に伝える書簡が残ります。この脱脂乳の乳酸発酵こそ、カルピスの原点となるアイデアなのです。
大正12年の『アサヒグラフ』に掲載された広告
脱脂乳に砂糖を加え乳酸発酵させた製品が完成すると、三島はこれをサンスクリット語の「サルピス」と、当時栄養補給のため添加していた「カルシウム」の造語で「カルピス」とします。さらに、作曲家の山田耕筰と、サンスクリット語研究者の渡辺海旭にアドバイスをもらって命名を決めました。
発売後のカルピスを有名にしたのが「初恋の味」というキャッチフレーズです。これを提案したのは文学寮の後輩驪城卓二でした。カルピスの発売はこうした友人たちに支えられていたのです。
海雲の危機を救った人びと
高嶋米峰筆三島海雲略歴
三島海雲は、経営に無頓着なのが欠点でした。一度、増資の結果、経営権を取りあげられたことがあります。そのとき、三島に経営を戻すように交渉にあたったのは、三島と楚人冠の共通の友人である、評論家の高嶋米峰と、政治家の牧野良三でした。
いざというときに救ってくれたのは、やはり友人たちだったのです。
海雲を支えた人脈
烏頭会色紙
三島と楚人冠の人脈が、カルピス成功の背景にあることは、ここまで見たとおりです。二人の人脈は、文学寮で出会った背景もあって、仏教に関係する人びとが多いのが特徴です。また、月に一度集まって、一緒にご飯を食べよう、という極めて気軽な人脈もありました。しかし、経営権を失った三島を救った高嶋、牧野はこの会の仲間だったのです。
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