平成24年度夏期企画展「白瀬中尉の南極探検と楚人冠」講演会
平成24年度夏期企画展「白瀬中尉の南極探検と楚人冠」に関連して、平成24年9月15日に開催した講演会の講演要旨。
平成24年度夏期企画展講演会レポート
平成24年度夏期企画展「白瀬中尉の南極探検と楚人冠」開催に合わせ、9月15日(土曜日)に生涯学習センターアビスタホールにて、極地研究所名誉教授の渡邉興亞さんを講師にお迎えして講演会を開催いたしました。
渡邉さんは南極観測隊のOBでもある研究者です。楚人冠が明治後期という時代としては高度な知識を有していたことを評価されておられました。以下は講演の要旨です。
渡邉興亞さん「白瀬南極探検」
南極大陸は長い間人類にとって未知の世界だった。他の大陸から遠く、周囲に暴風圏があり、しかも冬は海氷帯に囲まれる南極大陸は人類にとって非常に近づくのが難しいところであった。本格的な南極探検はキャプテン・クックによって初めて行われ、大陸の周囲を航海した。その後、陸地の存在が確認され、1840年のウィルクス隊が「南極大陸」という概念を提起した。そして、1895年から1922年の「英雄の時代」には、スコット、シャクルトン、アムンセン等が大陸内陸部の探検をした。白瀬矗もこの時代の一人になり、歴史的に非常に大事な時代にわが国が参加していたという実績になった。
明治41年、ピアリが北極点に行ったと報道されると白瀬矗は目的を南極点到達に変えた。帝国議会に請願書を出して助成金交付が可決されたが、政府は資金助成を拒んだ。そこで七月に大隈重信を会長に後援会が作られ、民間からの支援を募ることとなった。このとき朝日新聞社が後援に名乗りをあげ、幹事になったのが池辺三山、杉村楚人冠らだった。楚人冠は特に、今や探検は科学的な時代だと主張し、白瀬隊の学術隊員、機材の充実など学術面の強化に努力した。これは大変な見識である。朝日は探検船として海軍砲艦「磐城」の払い下げに期待をかけたが、その希望は潰え、朝日は安全面などの理由から、船が「開南丸」に決まった時点で、募金を後援会に移して講演活動から降りてしまった。
その後、楚人冠は、白瀬隊の出発を挟む前後二週間「南極探検」を朝日新聞に連載した。これは白瀬南極探検研究に関する大変貴重な記事である。たとえば、犬橇の構造についてのアイヌ式からノルウェー式への変更、極地天幕の構造をシャクルトン隊に倣うなど、当時の探検技術に関して具体的な記述がある。また、南極探検後援会発行の『南極記』では「骨雪」と記された筋状の表面積雪形態を、現代の専門用語でもある「サスツルギ」と記すなど、楚人冠が当時としてはかなり高度な自然科学の知識を持っていたことを窺わせる。
結局白瀬隊は204噸のスクーナー帆船に補助機関を付けた「開南丸」で探検に挑み、大和雪原に到達し、一方「開南丸」は沿岸探検で当時のロス海航海の最東端記録を残し、岩石試料を採集して、エドワード7世ランド付近の地質構造について若干の情報をもたらした。楚人冠は、南極点に行くかどうかよりも、人跡未踏の地で科学的な調査をすることが重要だと看破したが、白瀬隊はいくらかその助言に応えた成果を残すことができたといえるだろう。
なお、講演にあわせ、渡邉さんの御厚意によりDVD『白瀬南極探検の記録』を放映しました。また、極地研究所より、南極の氷の提供を受け、講演会の参加者、アビスタの利用者の方に、実際に触れながらご覧いただきました。